こたろぐ

石橋鼓太郎のブログです。アートマネジメント/音楽研究(見習い)。

アドルノとスピノザ

最近、アドルノについての関心が再び高まっており、煮詰まっている発表準備の息抜き(という名の逃避)として、少しずつ読んでいる。いま読んでいる「音楽の社会的状況によせて」(『アドルノ 音楽・メディア論集』平凡社)は、1932年だから、アドルノが20代の頃に書かれた文章ということになるが、解説によると、アドルノの音楽に関しての基本的な論点はこの時点でほとんど出尽くしているらしい。文体においても、何事も完全に褒めたり貶したりすることはなく、留保に次ぐ留保を慎重に重ね(バルトークとヴァイルを留保付きながらも絶賛しているのは意外だった)、ああでもない、こうでもない、と二つの極を行ったり来たりする、あの独特の分かりにくさが、既に完成された状態にある。恐るべし…。

ところで、少し前には、スピノザの関連書を少しずつ読んでいた。文化人類学に関する最近の研究書でよく名前を見かけて気になっていたのに加えて、生活の倦みをどうにかしたいという個人的な関心もあったためである。読んでいると、考え方が根底から覆されるような瞬間が何度もあり、たしかに感動的である。そもそも日記を始めようと思ったのも、日常におけるスピノザ的な喜びに対して意識的になるためだった。でも同時に、(自分は心の底からこうは思えないな~)という心の声が聞こえてくる。確かに生きる上での努力目標としては素晴らしいのだが、現代という時代やら社会やら制度やらに毒されてしまった自分に、スピノザ的な生き方ができるようには思えなくなってしまっている。頑張ってそう生きようとしても、なかなかそうはいかない自分に嫌気が差して、疲れてしまいそうだ。

そういえば、アドルノは、社会や歴史に媒介されない直接性を標榜する哲学や音楽に対して、手厳しい批判を加えた学者だった。あらゆる存在は既に何かによって媒介されてしまっていて、この事実を抜きにして対象を扱うことは、媒介やそれに伴う疎外状況を覆い隠すことにつながってしまう。アドルノにとって、媒介から目を背けずに対象と徹底的に向き合うことこそが、そのような状況から抜け出す唯一の方法だった。

どこかスピノザ的な喜びに完全に心をときめかせることができない自分には、アドルノのように、このしんどい世界の真っ只中で、ああでもない、こうでもない、と行ったり来たりする生き方がお似合いなのかもしれない。それはきっと苦悩に満ちた道だけど、本当の喜びもまた、そこからしか生まれてこないような気がする。向き合うべき対象がはっきりとあるのは、唯一にして最大の救いだ。

よくよく考えてみれば、二人とも、ある対象と徹底的に向き合うことで、主体がまったく変容してしまうプロセスのことを言っている。それを、素朴な真の喜びとして描くか、社会の中でがんじがらめにされた苦難の中でかろうじて見えてくるかもしれない喜びとして描くか、というだけの違いなのかもしれない。