こたろぐ

石橋鼓太郎のブログです。アートマネジメント/音楽研究(見習い)。

「できなさ」の種類

またしばらく更新しそびれてしまった。特別忙しかったわけでもないのに。なんかできないんですよね…。別に忘れてるわけではなくて、頭の片隅にはあるのだが、まあいっか、となってしまう。

こういう種類の「できなさ」は、けっこう多く経験している気がする。家を出るとき、出る時間は分かっていて、準備も間に合っているのに、なんか遅れてしまう。最近は、出席が必須ではないオンラインのイベントをわざわざ聞く、みたいなことが全然できなくなってしまった。外的要因によって自分の時間や注意の流れをコントロールされるのが嫌らしい。

一方で、普通に頭からすっぽ抜けたり、勘違いしてしまった結果としての「できなさ」もある。Twitterでも書いたが、先週は王子駅集合だったのに八王子駅に行ってしまった。自分の頭の中では、王子よりも八王子のほうが大きい容量を食っていて、文章をそう読んでしまっていたらしい。これはもう、単なる不注意というか、認知能力の欠陥である。

こういうことを繰り返しているうちに、気がついたら2年、3年と経っている。なんと危機感がなく、漫然とした人生だろうか。まあ、常に危機感を持って、隅から隅までを完璧に意思通りに管理している人生よりは、だいぶマシかもしれない。自分の中に猛獣や宇宙人を飼っていると思って、それとのコミュニケーションのとれなさを楽しめば良い。

とはいえ、それで他人に迷惑をかけてしまうのは良くないし、自分が本来やりたかったことができなくて凹んでしまうのも良くない。やっぱり人間は社会の中で生きていかなければいけない。良くしてもらった人には良くしたいし、その恩に対して自分の仕事を通じて応答する責任(responsibility)がある。でもこれも、感じなくちゃいけないものではなく、自分の中に自然と沸き上がってくるようなもので、実際いまもそういう気持ちが活動の大きなモチベーションにつながっている。

自分のコントロールのきかなさと、できるだけ罪悪感を伴わずに付き合い続ける方法を、日々探している。

懸垂ができるようになってきた

1年くらい前からちょっとずつ筋トレをしている。ここ数ヶ月サボっていたが、なんか最近体型がだらしなくなってきたような気がして、1ヶ月前から再開した。上半身を少しでも厚くしたいので、腕立てと懸垂を1日ずつ交互にやる、その日のやる気次第でもう1種目やる、という最低限続けられそうなメニューにしている。

1ヶ月続けてみて、写真を見比べてみるとちょっと効果が出てきた気がする。あと、懸垂が最初は1回もできなかったのに、最近は5回くらいなら連続でできるようになった。1ヶ月でここまでできるようになるとは思っていなかったので、これはけっこう嬉しい。

筋トレブームは、最近の健康管理社会やネオリベ的なマチズモと結び付けられて批判されがちである。もちろんそういう側面もあるが、できなかったことができるようになること、自分がなりたい自分になること、などは、これらの批判を越えて、ひとりひとりが生きていくための糧になることでもある。

ただ、それによって生かされている、と当人が思っている事柄でも、それが実は誰かのお金稼ぎのために巧妙に仕掛けられた罠で、気がついた頃には搾取されていた、なんてこともある(例の映画に関するビジネスのように)。何につけても不確定なこの世の中で、考えることを止めて決断し、ただ一つの行動さえしていれば楽になれるよ、という甘い囁きについていくと、自分の人生がより大きい何かに乗っ取られてしまう。

結局、ときに迷い立ち止まりながらも、あれこれ試行錯誤していくしかないのだろう。あるいは、サーフィンのように、その時々に来た波を軽やかに乗り移っていくのでもいい。その果てに生み出された各々の生き方は、安易に批判できるようなものではない、と思う。

フードを被ると視界が狭まり首が凝る

昼間に起きてしまうと、どうしてもその後3時間くらいダラダラ過ごしてしまうことが多い。今日もその日で、遅めの昼を食べた後、これじゃいかんと思い、家を出て軽くサイクリングをした。予報にない雨が降ってきて、コートのフードを被る。

フードを被っていると、首を回して周囲を確認することができなくなってしまうし、そのうえ自転車を漕ぐために前傾姿勢をとるので、視界が極端に狭まってしまう。その結果、首を不自然に前に突き出して固定しなければならず、変な筋が凝ってしまう。

コメダ珈琲にかけこみ、論文を微修正する。やることと時間が限られている作業は比較的集中できる気がする。今日は19時からオンライン会議があり、それに間に合うように帰ってこないといけない。修正が終わり時間を見ると、18時10分をまわったところだったので、急いで帰宅。いつも行くラーメン屋を覗いてみるも、混んでいたので今日はスルー。

オンライン会議は、「千住だじゃれ音楽祭」の今年度の計画について。昨年度はできることの選択肢が極端に限られていたので、早い段階で割り切ってオンラインでの実験に専念することができた。今年度はオフライン(という言い方も変で慣れないが)の可能性がいろいろと復活してきた一方で、まだ完全に元通りにすることもできない、でも完全オンラインには少し飽きてきている、というなんとも微妙な状況である。その時々の状況に応じて、いろんなハイブリッドを試してみたい。

その後は音楽を聞いたり動画を観たり友達とラインをしたりしていて、気づいたら2時とかになっていた。こういうのやめたい。

自分自身と向き合い続ける

日記、結局ほぼ三日坊主で全然続かなかった。なんとなく頭の片隅にはあったのだが、再開するきっかけがなく、そのままになっていた。このまえ後輩に「そういえば日記書いてましたよね、たまに見てました」と言われ、なんか恥ずかしい気持ちになったので、これを機に再開してみようと思う。

 

いきなりちょっと重い話なのだが、今日は精神科の初診に行ってきた。ここ2~3年、物事に集中できない状態が続いており、研究や生活に支障をきたすことが多くなってきた。この日記でも書いているように、様々なライフハック法やらアプリやらを駆使して試行錯誤し続けているのだが、全て続かず、もう万策が尽きてしまった。困り果てつついろいろ調べてみると、発達障害、具体的にはADHDの症状に当てはまることがあまりにも多い。藁をもすがる思いで、一念発起して予約してみた。

結論から言うと、まだ断定できる要素はない、とのこと。発達障害は幼少期から症状が表れていることがほとんどだが、私の話を聞く限り、それがあまりないらしい。確かに、いろいろと質問されて幼少期を振り返ると、それほど落ち着きのない子供ではなく、むしろ優等生で大人しかった気がする。通知表にもいいことしか書かれてなかったし。今後は、幼少期の情報収集と、生活リズムの記録をして、それをもとに引き続き検討していきましょう、と言われた。

自分の過去や特性と正面から向き合ういい機会になりそうで、思い切って受診してみてよかったと思う。世界のことはよく分からないし、それが研究のモチベーションになっているのだが、その分からなさは結局、自分自身のよく分からなさに起因しているような気がする。最近よく思うのだが、自分自身と向き合い続けている人の言葉や行動には、やはり説得力がある。裏を返すと、自己分析を放棄している人の言葉には説得力がない、とも言える。インターネットに跋扈する、より大きい何かに追随して、自分がないままに批判ばかりしている人たちである。

 宇野重規さんのフーコー『肉の告白』評がとてもよかった。フーコーはずっと積ん読しているのだが、「自己」へと向かっていったとされる後期を中心に、チャレンジしてみようかな。

ということにする

今日は会議を一つ寝ブッチしてしまった。大反省………。

こういう日はだいたい一日ダメで、その後もあまりはかどらなかった。ので、半分オフの気持ちで気分転換しようと思い、久々にサイクリングに出かけた。やたら高く跳ぶけど全然前に進んでいない、変な走り方をする犬を見かけたので、それだけで今日はいい日だった、ということにする。

諸事情でずーっと浮いていた論文が、やっと学会誌に採録されることになった。第一稿を書いたのはもう二年以上前なので、今はもう関心のありかも変わってきていて、論の運びもいまいちしっくりきていないところがあるので、正直複雑な心境ではある。とはいえ、全体として面白いものになっている自信は辛うじてあるし、まだ直せる猶予はあるので、もうひと踏ん張りしたい。まあ、過去の自分はしょせん他人だと割り切って、そこから学べることもある、と思うことにしよう。じっさい、いま突き当たっている壁を破るためのヒントは、過去に書いたものの中にあったりする。

研究における孤独と共在

きょうはこちらの研究会に向けた検討会だった。

docs.google.com

共同研究的なものに参加するのはおそらく初めてなのだが、たいへん勉強になる。手持ちの素材に限りがある中で、共通のテーマをいかにつくりあげ、それにどう研究の内容を寄せていくか。これがなかなかしんどい作業であると同時に、それによって自分の研究そのものが深まっている感覚もある。これこそが共同研究の醍醐味なのだろう。

しかし、自分の研究にいろんな人が時間をとってコメントしてくれるのは、本当にありがたいことだ。今日もかなり白熱した議論になった。それぞれに共通する意見もあれば、違う意見もある。それらを引き受けて、最終的には自分が判断をして研究を組み立てていく必要がある。研究とは最終的には孤独な営みだと思っているけど、いろんな人からの声がそこに混ざっていればいるほど、その内容が豊かになることも事実だ。

今回の研究会は「孤独と共在——音楽の『つながり』を再考する」というテーマなのだが、研究という営み自体もまた、「孤独と共在」によって成り立っているのである。

他者に対するスタンス

きょうは月に1回開催されている音楽人類学研究会でこちらの本を読んだ。

www.ongakunotomo.co.jp

近年、発達心理学を中心に、人間のコミュニケーションの基盤に音楽性を据えようとする「コミュニケイティブ・ミュージカリティcommunicative musicality」という概念が流行っているらしく、これに関する学際的な研究を日本でもやってみよう、というコンセプトで組まれたアンソロジーらしい。

興味深かったのが、人間を対象とした部分よりも、霊長類や鳥類を対象とした部分のほうが人類学的に読めた、という話になったことだ。私も第一印象として、乳幼児と母親、あるいは音楽教育の場面の相互行為を分析している部分よりも、人間ではない動物を中心に生物学に近い話をしている部分の方が面白かった。たぶん、前者はなんとか音楽を「いいもの」として描きたくて、人々の相互行為を無理やり手持ちの音楽概念に当てはめて説明しようとしてしまっている一方で、後者はよくわからない他者を対象に研究する構えが既にできていて、我々の手持ちの概念を生物に当てはめることに対して慎重なので、かえって音楽を遠いところから捉え直しているような感じがするからなのだろう。

自分が既に持っている概念や思考を補強するエビデンスをとる目的で研究するのか、よくわからない他者と向き合うことで自分が既に持っている概念や思考を捉え直す目的で研究するのか、という研究上のスタンスの違いは、かなり大きい。わたしは常に後者でありたいと思っているのだが、特に実践に近い研究分野では、前者のスタンスの人のほうが圧倒的に多く、なかなか話が分かってもらえない。もどかしいが、こればっかりは、その分野の中で地道に問い続けていくしかないのだろう。